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本日は晴天なり



こんにちは。徳川家康です。

からの〜、家来でーす\(^o^)/



2021年、大河ドラマ『晴天を衝け!』つけー!始まりましたね〜yeah!
時代は幕末〜昭和。日本経済界の礎を築いた埼玉県の偉人・渋沢栄一の生涯。
新札の顔(一万円札)に決まって大河の主役にもなりアチコチ特集番組が組まれて
今が栄一先生のちょ〜モテ期ピークかも!


こんなに功績を残してるのにも関わらず、意外と名前だけは知ってるというだけの人は多かったのではなかろうか?

埼玉県人だった私でさえまず、深谷って何処なんだ?!という感じだった。エライ埼玉のはずれやー。
埼玉の教育委員会よ。古墳ばかりに集中してないでもっと郷土歴史に力を入れてくれw

さて栄一が一橋様の家臣だった事もあり徳川・幕臣佐幕派側メインで胸がワクワクでございます。
家康様&黒子チームのナレーションからとっても斬新〜♪(黒子入団希望 笑)



それにしても‥‥‥


主要人物の顔面偏差値がたかいのう!!やばっ(≧∇≦)(笑笑)



西の経済界のドン五代さま(おディーン)に打ち勝つには吉沢栄一だったのだろうか?
思えば朝ドラの五代さま人気は凄かった。再登場は嬉しい限りでござる。
そして吉沢亮を据え置いたら


関わる重要人物みんなイケメーンになったござるーーーー\(^ω^)/


後に結託する伊藤博文までもがミュージカルのプリンス(山崎育三郎)キャー❤︎殴り合い炎❤︎
最近登場してきた小栗上野介は筋肉体操の人だった〜(個人的に1番ヒット 笑)
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おかげでイラスト描くのが楽しい楽しい〜♪♪はずむ、はずむ〜〜♪
貴方はどのタイプがお好き〜?まるでボーイズコンテストみたいな構図なってしまった。

ドラマは一橋慶喜様がいよいよ将軍職に就き、勘定組頭に出世した栄一は家臣から幕臣となり、

翌慶応三年(1867年)、慶喜の弟昭武(最後の水戸藩主)が将軍名代としてパリ万国博覧会に
参加するため幕府使節団が組まれるが、その中に勘定方として加わるのだ〜。

この渡欧(海外視察)が栄一にとって大きな影響を受けることとなる。


余談ですが

幕府使節団には随行医になんと高松凌雲先生もいる!
栄一と同じように一橋様の家臣に推されて専属の医官となって
フランスで赤十字精神を学び日本の医療に定着させていくのだ〜。
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五稜郭まで脱走軍の軍医として付随してるのでぜひ同じ家臣組で登場してほしいな〜。
と願っていたら、ルームメイトのようにドラマに登場してましたネ〜〜やっぱりイケメン系だ〜!
これは何かと関わりそうだな(笑)

福澤諭吉(&福地源一郎)も出てきて、何故か本物に忠実な諭吉でワロタ。
多分、あまり栄一と関わらないのだろう。(わかりやすい)

凌雲先生のことはまた改めて徳川家康の家来がナレーション致したいでござる。


パリ万国博覧会では薩摩藩も参加して幕府とは別なブースで展示(コミケを想像してしまった 笑)、
独自に勲章を作成していた事で幕府の非難を浴びたらしい。


多分、このパリで薩摩の五代さまと栄一が

初めて出会うのではなかろうか?


しかしこの時、薩摩藩は長州藩と手を組んで同盟を結び、倒幕に転じているんですよね〜。
だから幕府に強き強きィ〜!本当にしたたかやなぁ〜。
彼らが渡欧中に慶喜は政権を朝廷に返上(大政奉還)、京都で鳥羽伏見の戦いが勃発し
幕軍vs薩長軍の戊辰戦争へと突入するのでございます。


従兄弟の渋沢成一郎(喜作)は幕臣として幕軍に参戦して函館まで抗戦する。
この前、土方歳三と関わりそうなフラグがたってたよね〜!
栄一と武州の百姓同士で今後の人生プランを語り合っていたわ〜フフフドラマだけどねd(^_^o)

多分、本物もイケメン(←ハーイみんなココ注目!by金八)、見立て養子となった渋沢(尾高)平九郎の
非業の死も観ることになるのか、切ないぞ〜。

以前の記事に栄一のことを書いていた『五代ロスって成さまと栄ちゃん』記事がありましたので
ぜひ合わせてご覧下さい。
これからの波瀾な急展開に目が離せません。




さて


栄一を家臣に導いた慶喜の近侍・平岡円四郎は、小粋なべらんめえ口調で魅力的に
モフモフの人が演じられてましたが、攘夷派の水戸藩士に暗殺されてしまい哀しい結末でしたね。

あまり存じて無かった人物ですが、江戸の昌平校の開国派エリートだったんですね。
まことに惜しい人でした。一橋様も腹心の家臣を失いさぞかし心折れたと思ふ。


1853年にペリーが来航して鎖国が解けた始めた日本、国内は攘夷派、開国派と国論がぱっかり分かれました。
開国派は海外との圧倒的な国力の差を知るがゆえに国防を踏まえ海外との国交を唱えますが
反勢力の攘夷派には国賊扱いにされて命を狙われるという苦難な時期。



また海防とのちに開国を訴えた

高島秋帆も然りでした。


高島秋帆はさらにペリー来航の前のアヘン戦争(1840年)に
隣の清国(中国)がイギリスの圧倒的な大砲で敗北した事を知り、その脅威を感じて
急遽、西洋式砲術を学び、高島流砲術を確立しました。

そして『天保上書』という意見書で大砲の近代化を幕府に提言し、老中水野忠邦の目に留まります。
これが叶って江戸の徳ヶ原で高島流砲術と西洋式調練が実施されました。

この徳ヶ原という場所は現在の板橋区高島平です。
例年、板橋区民まつりでは高島流砲術の鉄砲隊の実演が見られたそうですが、今どうなんでしょうね?
機会が有れば見てみたいですね〜。(じつは私、生まれて3歳まで板橋区民なのでありました。)


実施で認められた秋帆は幕府に専属砲術家として徴用され
幕臣たちにもその砲術と兵術を伝授する事となったのです。
そして国防への近代化実現に順風満帆に進む!!‥‥と思われましたが、
最大なる試練が待ちうけておりました。

洋式化と秋帆の抜擢をよく思っていなかった保守派の目付鳥居耀蔵
(またの名を妖蔵、マムシと呼ばれる。どうみても悪役の呼び名 苦笑)に
冤罪をかけられ捕縛されてしまったのです。
これが『蛮社の獄』に繋がっていく洋学者弾圧の始まりでした。

そのマムシによって捕縛された秋帆はペリー来航後の赦免までの12年間、岡部藩陣屋の一角で
幽囚されてしまいました。上のイラストはその囚われた姿(泣)
その陣屋は栄一の地元の近くだったのですね。



幽囚されていた12年間。
海防の灯火は消えてしまったのでしょうか?



さてさて

ここからが本題。


最近、私のオジサン家(主人実家)が代替わりとなって遺品整理をしているのですが

以前から気になっていた古文書にも触れられるようになりました。


時代は江戸後期からが多く、先祖の記した日記や記録、書状、認定書などが保存箱に収められています。
(6箱ぐらい)
義父が生前、郷土史家の方達の協力を得て長い間、調べてまして
それが年代順に番号がふられ編纂されております。
別個に全古文書一覧が書かれている索引が一冊あって
これを見ると大体、どんな古文書が有るのかがわかります。

オジサン家は江戸初期から武州多摩地域に住む300年以上続いている旧家で
生業は林業、養蚕農家。高札があるので村の名主を担ってたのか。
また千人同心の縁(家系だと思う)があったようで古文書にはそれにまつわる物がいくつかあります。

幕末オタの私は当然、その時期だけの文書をピンポイントでガン見するわけです。

しかし
くずし字で全然、読めんかったのよね〜⤵︎ 
で、一覧表で内容を見るしかありませんでした(涙)

四代前のご先祖様は天保6年生まれ(1835年)で土方歳三さんとタメ年でした。
きっと幕末の動乱を直に感じ同郷の新撰組の噂をよく聞いていたことでありましょう。

増田蔵六から伝授されたという先祖の天然理心流の目録、確かに巻物になって現存してました。
他に柔術や小笠原流の目録もあったので多摩地域の自警的な嗜みだったのかなと思います。
特に千人同心は武術は強制的に習わなければならぬ所があったようですネ。

この時期は千人同心関係の文書も多く
ペリー来航時の翌年正月に

「異国船渡来に付き、千人同心火事装束通達」というパニック書状(笑)や

長州征伐のため将軍御上洛にお供する為の御達書もあり
歴史書にはないその場の危機的状況をリアルに感じ取れます。


その中にふと
全く関連性のない?文書のタイトルに目がいきました。


『乍恐以書付奉願上候 駒木野小仏宿より増助郷差村の件』


差出人 武州多摩伊奈村124名、惣代組頭兵左衛門
宛先は江川太郎左衛門様御役所。


??ん?どうやら訴状っぽい。


御役所の?江川太郎左衛門様?‥‥だれ?

‥‥ググりました(笑)

調べた結果、な〜んと!

とんでもなく有名なお代官様でしたよーーー\(^o^)/yeah!

そしてこのお代官さま

先程説明した高島秋帆が西洋式砲術を伝授した幕臣の一人だったのです。

幕末オタのくせに今まで全く存じ上げませんでした。
そこからバンバンに調べ上げましたよ〜。

まさかオジサン家の古文書がきっかけで太郎左衛門沼にハマるとは。
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『江川太郎左衛門』は鎌倉時代からの由緒ある家柄で38代まで続いた伊豆の韮山お代官様です。
代々太郎左衛門を名乗り、伊豆、駿河、相模、武蔵、甲斐の天領地を管理しその地域の民政に従事しました。

つまり、武州多摩もお代官さまの管轄。
オジサンの天保のご先祖の時代は36代の江川英龍、37代江川英敏、38代江川英武の三世代の
お代官様にお世話になってたわけですね。


36代当主の江川英龍(1801〜1855)は伊豆の地元では坦庵さんと親しまれ、領民側に立った施策から
「世直し江川大明神」と領民から呼ばれていました。
領民の為に種痘の摂取も普及されたんですね〜。
文武両道で絵画もなさるアーティストな面もある多芸な文化人。

蘭学の知識を持ち、秋帆から高島流砲術を伝授をうけ、幽閉された師の国防の意志を継いで
砲術を教える洋学塾を開いたのでした。
全国から283名の受講者が集まり、佐久間象山や橋本左内、大山巌、大鳥圭介、榎本武揚、
ジョン万次郎、黒田清隆など著名人も学んでいたとか。

幕末ではこの江川塾と 江川太郎左衛門の名は
知らぬ者はいないほどのカリスマ的な存在だったようです。
(勝海舟や福沢諭吉も絶賛している)


ペリー来航後、海防に尽力し品川に台場を造り、韮山に鉄製の大砲を鋳造する反射炉の造設にも着手しました。
また農民による鉄砲隊を結成し訓練を早くに行っていました。(長州奇兵隊の先駆けだった。)
その兵隊の携帯用の兵糧として初めてパンを製造したことで、

日本の「パン祖」とグルメ的な称号もお持ちです(笑)
因みに名代でパリに行かれた徳川昭武様は初めてココアを飲んだ日本人なんだそうだ。


今も韮山代官所江川邸は重要文化財として反射炉と共に現存されています。
江川パンまつりのイベントがあるらしいぞ〜(笑)

しかし民政と海防のあまりの激務に命を削ってしまったのか道半ばに倒れて病死なされました。
過労死なのか?54歳の短くも濃いィ生涯でした。


その跡を継いだのが37代江川英敏(1839〜1862年)。まだ17歳の若いお代官さま。
英敏は父の造設中の反射炉を完成し、砲弾を作成。
幕府から江戸・三田の代官所役宅に鉄砲調練所を設ける事を認められ農兵隊の育成に邁進しました


オジサン家の古文書『乍恐以書付奉願上候 駒木野小仏宿より増助郷差村の件』の訴状は
この英敏の在官時に向けられたものらしい。

また千人同心との関わりがあるので
古文書と合わせて次回の記事に詳しく書かせて頂くつもりです(^ω^)/

しかし英敏お代官さまも24歳という若さで病死してしまうんですね。やはり過労死なのか?代官業はブラック。
wikiには英敏の肖像写真が見られますがジョン万による撮影と書いてあって。


それがまあ〜凛々しい美男子!瞳がキラキラ˚✧₊⁎❝᷀ົཽ≀ˍ̮ ❝᷀ົཽ⁎⁺˳✧

(江川家の方々は眼力強くてカッコいいわ。)

偉大なる亡父の想いと国を守る大きな責任を背負い、戦い続けて力尽きたのかなと惟うと
切なくなりますね。

ちょうど24歳になる息子と重ねるとあまりにも時代と生き方が違い過ぎて。
隣でビール飲んでゲーム三昧している息子よ〜。コロナ禍でも平和で良かったな〜(苦笑)



38代当主は弟の英武(1853〜1933)が跡を継ぎました。この時、弟君はまだ9歳!
明治維新で15歳ですね〜。
動乱のピークの戊辰を御家来衆は必死に支えていたのだろうと想像します。
戊辰時は将軍慶喜が恭順をし、それに従がった事で旧領地はそのままとなり
維新後は韮山県令となりました。

36代英龍が洋学塾で西洋式兵法、高島流砲術を全国的に広げた事で
それを習得した門下生がまさかの敵方(薩長軍)になり、幕府が滅ぼされるという皮肉な面も有りましたが
その後も日本の国防に大きな影響を残しております。



という事で。

高島秋帆の影にこの人ありと。


隠れたところに偉大な英雄が潜んでいたという
韮山お代官さまのお話でしたが
遅ればせながら、このような幕臣が居られたことを知ることができて幸いです❤︎



また長くなってしまいましたが

最後に
せっかくだから慶喜公の描いた漫画ないかなと探したら、
四コマ漫画でたったの3コマしか登場してなかった〜( ̄∀ ̄)
でも何気に草彅くんに似てる〜(笑笑)
主役は会津藩主松平容保様ですが。
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慶喜公の提案により、誰もなりたがらない守護職を押し付けられた会津藩主松平容保様。
松平慶永とは春獄の事ですね。
お爺さんぽく描いているが実際は40代ぐらいで若い。(ドラマでは要潤でした)


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(↑*家督を譲った養子の義徳様はこれまた慶喜の弟君。水戸家は子だくさんψ(`∇´)ψ)

大政奉還した慶喜公はその後も政権に関わるつもりだった。
しかし薩長側はそれを許さず討幕の偽勅を発令させ徳川家を排斥させてしまう。
それに憤怒した幕軍の薩長との決戦への機運が高まっていく中、
朝敵となり、宗家の滅亡と戦さでの犠牲者拡大を恐れた慶喜公は
恭順の姿勢をとるために大阪から江戸に戻り謹慎したのだった。

勝海舟の手腕により江戸は戦火を逃れ、無血開城するものの‥‥‥。
いやいやなった将軍職だからそこまで思い入れは無かったのか?
満円の笑顔で去って行った慶喜公のコマが(笑)若い当時の私の悪意がこもってるよね(苦笑)

何故、慶喜様は恭順が許されて会津藩主の容保様は許されないんだ?と。

徳川家と帝のために慶喜と共に京都を真摯に護って来て
大阪での敵前逃亡も一緒にさせられて(従うしかなく)、お陰で家臣には非難されて。

京都守護職を担った事で長州から怨みを買い、幕府の代わりに矢面に立たされた会津藩が
気の毒で同情的でした。

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そりゃ人間不信になりますよね〜容保様〜(T . T)(泣)


しかしこういうピンチなところでタイミング良い行動を起こして凌いでいった慶喜は賢い将軍だったと思う。
恭順に徹底的に貫いた事で幕臣達が明治の世にも日本の為に貢献する事が出来たのだから。

明治の慶喜様は政権から離れ、撮り鉄並みのカメラ小僧になって写真コンテストに応募したりしている。
(受賞もしてるんだべ)


このまえ放送された番組で、歴史専門家が
趣味に興じる事で反逆の意思は全くないことを明治政府に示す為
だったのではないかと推考されてましたが、



うーん。私は

まじ文明開化をウエーイで愉しんでたと思ふなぁ。


ではまた\(^o^)/










by otassyaclub1863 | 2021-07-05 17:05 | 幕末 | Comments(0)
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